私たちが生きている世界、日本、地域、家族・・・
当たり前と思っていることは
本当に当たり前なのでしょうか?
Petuniaのカウンセリングでは悩み事があるときに
この、当たり前を疑ってみるワークをすることがあります。
わかりやすく食べ物を例に挙げると・・・
今、私たちは食料をスーパーに行って手に入れる人がほとんどだと思います。
・キャベツ
・ウィンナー
・卵
・食パン
これは、ある日の私の買い物かごの一部です。
多くの人が当たり前のようによく買う食料品だと思います。
よーーーく考えるとこの当たり前
実は本当に安全なのかわからないことがいっぱいで・・・。
例えばキャベツ。
私の父の畑で作るキャベツは
必ず所々穴が開いていて小さな緑のつぶつぶがついています。
嫌な予感がしてめくっていくと…どこかでアオムシくんに遭遇します。
とっても嫌な気分になるし食欲も失せますがこれが自然の当たり前です。
ではなぜスーパーのキャベツは
穴も緑のつぶつぶ(糞)もアオムシも見ないのでしょう?
高価な物でない限り農薬のおかげです。
こんなふうに
目の前の「楽さ」「気持ちよさ」「おいしさ」「安さ」の裏側にあることを
少し想像力を膨らませて考えてみると
ウィンナーの添加物や卵を産む鶏のエサや
食パンに入っている防腐剤のことなどのことも
気になってきます。
でも
いちいちこんなこと考えていたら
買い物もできないし何も食べられません。
厚生労働省が定めた基準を信じて
買い物をして、いろんなものを食べています。
私たちはそんな社会の中で生きています。
それで何の問題もなければ
その当たり前の毎日が過ぎていきます。
でも、もし仮に
自分は世間の多くの人達よりもものすごく
口に入った物を吸収しやすい敏感な体質だったとして
また、厚生労働省が一生に食べると予想した量を
はるかに上回るものすごい量を摂取していたとして
添加物が原因で何らかの病気になったとしたら・・・。
健康が損なわれたのは
「当たり前を見直して。」というサインです。
心の不調も同じこと
多くの人にとっては何でもないことでも自分にとっては何でもないことではないことや
多くの人よりも気づかないうちに過剰に取り込んでしまっていることって
みんなあるのではないかと思います。
言い換えれば、それは個性であり、自分がオンリーワンということです。
身体の不調だけでなく、心の不調も人それぞれですが
特に心の不調は理性の力で無理ができてしまう分
不調であることすら気づきにくいことが多いです。
そして、許容量を超えたときに何らかのサインを出してきます。
例えば
お子さまの不登校。
「『学校に行く当たり前』を見直して。」
例えば
上のお子さんの過剰な反抗。
「『お姉ちゃんは我慢して当たり前』を見直して。」
例えば
お母さんのイライラ。
「『家事は女がするという当たり前』を見直して。」
目の前の「安全」「安定」「無難」の裏側にあることを
少し想像を膨らませて考えてみることで
悩みの本質が見えてきたり気持ちが楽になったりすることがあります。
そこから初めて自分にとって最適の対処の仕方を導き出すことができます。
戦わない解決
当たり前を疑ってみて悩みの本質が見えてきたとき
怒りや、何かを非難する気持ちや、偏った正義感が湧いてくることがあります。
例えば、一番初めに出した添加物の例の場合
「こんな危険な物を許可している厚生労働省が悪い」という怒りが湧くかもしれません。
でも、何億もの人々の体質や生活を様々な角度から検証して定めた基準が
すべての人に万能に合っているはずはありません。
義務教育にしても、きょうだいや夫婦の中にある暗黙の了解にしても同じことが言えます。
「こんな当たり前をつくった誰かが悪い。」
「こんな当たり前の中で生きている世間がおかしい。」
などと怒ったり非難したりする気持ちに支配されるのではなく
また、そこからはみ出してしまった自分を卑下するのでもなく
俯瞰的に事象を捉えて、心地よくいられる自分の在り方と
建設的に解決できる方法を手に入れたいものです。