”見えないけれど、確かにあるもの”を言葉にする
「死んだ魚のような目をした大人がいっぱいいる電車に乗るのが苦痛だ。」
大学生になった息子のその言葉は、私に大きな問いを突きつけました。
人はなぜ、自分らしさや目の輝きを失ってしまうのだろう。
その問いは、20年以上、小学校教師として関わる中で、
私自身がずっと見続けてきたテーマでもありました。
子どもたちは、さまざまな姿を見せてくれました。
一生懸命がんばる姿。
虫を夢中で追いかける姿。
失敗して悔しがる姿。
友だちを思いやる姿。
腹を立てる姿。
一人で静かに過ごす姿。
そこには、テストの点数や通知表では表せない、その子らしさがありました。
そしてそれは、子どもだけではなく大人も同じ。
肩書きや能力では表せない、その人らしさ。
けれど、大人になるほど見過ごされていくように感じていました。
同時に、自身の中にも説明のつかない違和感がありました。
やりがいもあり、安定した仕事でもある。
それなのに、 「ここじゃないよ」 という小さな声が消えなかったのです。
その声に従い、教師を退職。
新しい生き方を模索し、セラピストを目指す中で、私は自分自身の内面も深く見つめるようになりました。
その過程で気づいたことがあります。
1人の人の中にもいろいろな声があり、同時にいくつもの相反する声があるということ。
「こうするべき」
「失敗したくない」
「本当はやってみたい」
「怖い」
「嫌だ」
「大切にしたい」
そして私たちは、その中のどれかを正しいものとして選び、どれかを切り捨てながら生きていることが少なくありません。 現実ではどちらかを選ばなければならない場面もあるからです。
はじめは、
自分の本心とは違った道を歩いているときは、苦しい。
だから、自分の本当の声をきくことが大切だと思っていました。
でも、それ以上に苦しくなるのは、 自分の中にあった大切な声や、まだ言葉にならない気持ちや想いを置き去りにして道を選択してしまったときなのではないか。
私はそう考えるようになりました。
夢を追うことも大切。
責任を果たすことも大切。
誰かを守りたい気持ちも大切。
怖さや迷いも大切。
どれかひとつだけが本当の自分ではありません。
大切なのは、それらをどれも小さくせずに見つめた上で、自分で選ぶこと。
たとえ現実では一つの道を選んだとしても、自分の中に確かにある小さな声を見ないふりをせずに選ぶこと。
そうやって選べたとき、相反する声は自分の足を引っ張るものではなくなりました。
そして、自分の一部を置き去りにして進むときとは違う関わり方で、人や出来事と向き合えるようになりました。
その積み重ねが、人生の景色を変えていきます。
現在行っているセッションでは、
「辞めるか、続けるか」
「断るか、受けるか」
「話すか、待つか」
「その方向が、自分らしいか」
そんな人生の選択の前で立ち止まっている方や、
選んだ後も何かが引っかかっている方と共に、
自分の中にあるさまざまな声を整理していきます。
夢も、本音も、願いも、怖さも、迷いも・・・。
見過ごされていた気持ちだけでなく、まだ言葉になっていなかった感覚や身体からの反応にも光を当てながら、その人自身が納得して進める状態をつくっていきます。
そして、
それまで見えていなかったものが見えてくることで、
同じ現実でも見え方が変わり、
人生の景色そのものが少しずつ変わっていきます。
私が大切にしている言葉があります。
「誰も、何も小さくしない世界を、自分の選択でつくる」
小さくしないのは、
夢や本音だけではありません。
ひとりの人の中にある様々な声や、
まだ言葉になっていない感覚、
見えないけれど確かにあるもの。
それらを置き去りにせず進むこと。
そうして、
見えないけれど確かにあるものに光が当たったとき、
人は、
勝ち負けや損得だけではない、
もっと広い世界に足を踏み入れることがあります。
その人自身の目が生きる選択を支えること。
それが、
私がたどり着いた仕事です。
