スーパーでの出来事
今朝、カフェのスープに使うかぼちゃを買いに、スーパーへ行きました。
レジは、商品のバーコードを読むところまでは店員さん。
支払いは、自分で機械を操作する仕組みでした。
私の前では、年配の男性が、その機械の使い方に戸惑っていました。
店員さんが何度か対応し、ようやく私の番になったと思ったところで、その男性が、
「袋ちょうだい」
と戻ってきました。
店員さんはもう一度レジを操作し、私のポイントカードも読み直すことになりました。
そのとき店員さんが、とても疲れた様子で、
「申し訳ないのですが、ちょっとお茶を飲んでもいいですか?」
と言われました。
私は、
「お察しします。お疲れさまです」
と答えました。
店員さんはレジ台の陰にしゃがんで、一口お茶を飲まれました。
長く生きていますが、レジの店員さんがお茶を飲まれるところを見たのは、初めてでした。
もちろん、その方がなぜそこまで疲れていたのかは、私には分かりません。
ただ、その場を見ながら、ひとつ考えたことがありました。
便利になることと、みんなが楽になることは、同じではないんだな。
同じ仕組みでも、「便利さ」は同じではない
セルフレジやキャッシュレス決済。
慣れている人にとっては、早くて便利な仕組みです。
けれど、使い慣れていない人にとっては、
「どこを押すの?」
「お金はどこに入れるの?」
「間違えたらどうしよう」
と、以前より難しいこともあります。
ここで私は、
「その人に能力がない」だけで見ると、少し違うんじゃないかな
と思います。
人によって、これまでの経験も違う。
身体の状態も違う。
機械に触れてきた量も違う。
そして、環境の側が求めてくることも変わっていきます。
つまり、
その人と、その環境との間に、ズレが生まれることがある。
同じ機械でも、
ある人には「簡単に買い物ができるもの」で、
別の人には「どう動けばいいか分からないもの」になる。
そんな見方があります。
「全部できるようになる」だけが、適応ではない
社会が変わっていくと、
「ついていかなきゃ」
と思うことがあります。
スマホも使えた方がいい。
ネット予約もできた方がいい。
キャッシュレスも覚えた方がいい。
もちろん、覚えることで暮らしやすくなることもあります。
でも、
全部を自分でできるようになることだけが、適応ではない
という見方もあります。
何に力を使うかを選ぶ。
できることは自分でする。
難しいところは、別の方法を使う。
必要なら、人の力を借りる。
そんなふうに、自分の持っている力と、今ある環境を組み合わせて暮らしていくことも、ひとつの適応です。
私は、この考え方がとても好きです。
チューニングするとき、見るのは「自分」だけではない
そら音処でいうチューニングも、
「自分の気持ちだけを大切にすること」
ではありません。
社会は、今どう動いている?
その中で、私はどこまでなら合わせられる?
どこは苦しい?
何なら覚えてみたい?
何は、別の方法を選びたい?
どこなら、人の力を借りられる?
そして反対に、
私は誰かに、どこまでなら力を貸せる?
そんなふうに、
自分・相手・現実を一緒に見ながら、ちょうどいい場所を探していく。
これも、チューニングのひとつだと思っています。
「できない人を切り離さない」と「全部助ける」の間で
今朝の出来事から、もうひとつ考えました。
もし身近な人が、新しい仕組みについていけなくなったとき。
「もう、できないならやらなくていいよ」
と、その人の世界を狭くしてしまうのでもなく。
だからといって、
「私が全部やってあげなきゃ」
と、支える側が抱え込むのでもなく。
たとえば、
「これは分かりにくいよね」
「ここまでは一緒にやろうか」
「これは自分でやってみる?」
「ここからは、別の人やサービスに頼ろう」
そんな関わり方ができたらいいなと思います。
これは、私自身の願いです。
社会はこれからも変わっていきます。
便利になるものもある。
失われるものもある。
うまく乗れる変化もあれば、どうしても苦手な変化もある。
だからこそ、
全部に合わせるのでもなく、全部を拒むのでもなく、
今の自分と現実の間にある「ちょうどいい」を探し続ける。
正解のない時代を生きるというのは、
もしかしたら、そんなことなのかもしれません。
そら音処では、こうした日常の出来事から、
「今、自分と現実の間で何が起きているんだろう?」
と見ていくことを大切にしています。
LINEでは、日常の中で自分に戻るための小さな見方や、セルフチューニングの音声をお届けしています。
