私たちは、「出来事」と一緒に自分のつくった物語を見ている―「観察者の目」がつくる、心の余白―

先日、ちょっと不思議で、おもしろいことがありました。

新しく「研究室」という場所をつくったときのことです。

名前の横につけたのが、🔬の絵文字。

ところが私、この絵文字が何なのかわからなくて、

「これ何?
氷山? 船? ……アザラシ?」

と聞きました。

「顕微鏡です。でも、確かにアザラシに見えますね」

と言われて、一緒に大笑い。

そして、その直後でした。

スリープ状態になっていたパソコンのマウスを触ったら――

画面いっぱいに、

アザラシ。

「えーーーーーっ😳😳😳」

なんというタイミング。

私はすっかり、

「これは、何かの不思議な力が働いたんだー!」

と、大はしゃぎしました。

アザラシが出た。それは「出来事」

少し分けて見てみます。

「🔬を見て、アザラシだと思った」

その直後に、

「パソコンの画面にアザラシが現れた」。

これは、実際に起きた出来事です。

でも、

「この二つには、何か特別なつながりがある」

となると、そこには私自身の「意味づけ」が入っています。

本当に何か不思議な力が働いたのかもしれない。

ただの偶然かもしれない。

それは、私にはわかりません。

でも、

「うわあ、なんか意味がある気がする!」

と感じた私がいた。

これは、確かに私の中で起きたことです。

人は、出来事をつなぎながら世界を見ている

私たちは、目の前で起きたことを、そのまま受け取っているだけではありません。

過去の経験や記憶。

そのときの関心。

自分が大切にしていること。

いろいろなものを通して出来事を受け取り、そこに意味を見つけたり、出来事と出来事をつないだりします。

そうやって、

「これは、こういうことなんだ」

という自分なりの物語をつくりながら、世界を見ています。

たとえば、

「これは何かのメッセージかもしれない」

も。

「また失敗した。やっぱり私はダメなんだ」

も。

「あの人、前もそうだった。つくづく嫌な人だ」

も。

「今日はいいことばっかり。私、ついてるなあ」

も。

ずいぶん違うように見えます。

でも、その中には、

起きた出来事を、自分なりにつないで意味づけている

という共通点があります。

物語をつくることが、悪いわけではない

ここで大切なのは、

「だったら、意味づけなんてしなければいい」

ということではありません。

人が出来事の中にパターンを見つけたり、意味のあるまとまりとして理解したりすることは、心理学や認知科学でも研究されています。

そして、自分にとって大切なものがあるからこそ、

ほかの人なら通り過ぎてしまう出来事に、

「あっ」

と心が動くこともあります。

だから、物語をつくることそのものを、なくす必要はないのでしょう。

ただ、ときにはその物語が、

「現実そのもの」

のように見えてしまうことがあります。

「そう見えている」と「本当にそうである」は同じ?

たとえば、

相手から返事が来ない。

以前にも似たことがあった。

そして、

「やっぱり私は嫌われている」

と思ったとします。

「返事が来ていない」は、確認できる出来事です。

でも、

「嫌われている」が本当なのかどうかは、それだけではわかりません。

ところが、苦しいときほど、

「私は嫌われていると思っている」

ではなく、

「私は嫌われている」

と、物語と現実がぴったり重なって見えることがあります。

そんなとき、

ほんの少し違う場所から、自分を見ることができたら。

「ああ。私は今、この出来事をつないで、『嫌われている』という物語を見ているんだな」

そこまでなら、見ることができます。

「観察者の目」

そら音処では、

こんなふうに、自分の中で起きていることを少し離れたところから見る目を、

「観察者の目」

と呼んでいます。

心理学にも、これと重なるところのある、**decentering(脱中心化)**という考え方があります。

自分に浮かんだ考えや感情を、そのまま現実そのものとして捉えるのではなく、

「今、自分の中に、こういう考えや感情が起きている」

と、一歩離れたところから捉える見方です。

これは、

「その考えは間違っています」

と否定することとは違います。

反対に、

「自分がそう感じたのだから、それが真実だ」

と決めることとも違います。

ただ、

「私には今、こう見えている」

と、自分の見ているものにも気づいている。

そこに、少し余白が生まれます。

アザラシを楽しみながら、アザラシを見ている

だから私は、

「わあーーー! アザラシだーー!🦭」

と大喜びしていていい。

その一方で、

「ああ、私、このタイミングをつないで、ものすごく特別に感じているんだな🤭」

と見ている自分もいる。

物語の中にいる私と、
その物語を見ている私。

どちらかを消さなくても、両方いることができます。

そして、ここまで考えて、私はまた一つ物語をつくりました。

もし、最初から🔬を顕微鏡だと分かっていたら?

もし、あのときパソコンがお花の画面だったら?

たぶん、今回の研究は生まれなかった。

だったら――

研究室のエントランスには、アザラシを置こう✨🦭✨

そう決めました。

これもまた、私が出来事をつないでつくった物語です。

アザラシが本当に何かを運んできてくれたのかは、わかりません。

でも私は、そこに意味を感じて、たくさん笑って、

そして、

「人って、こんなふうに世界を見ているんだ」

という、新しい見方に出会いました。

自分の物語に気づくというのは、

物語を捨てることではない。

その物語も大切にしながら、
それだけが世界のすべてではないと知ること。

そら音処で大切にしている「観察者の目」は、そんなところにもつながっています。