涙が出たところを、小さくしない―「小さな声をきくレンズ」で見る、混ざった感情―

先日、ある出来事のことを考えているうちに、涙が出てきました。

悔しい。
腹が立つ。
理不尽だと思う。
悲しい。
不甲斐ない。

いろいろな気持ちが重なっていて、
「私は悲しいんだ」と一言では言えない涙でした。

そんなとき、そら音処では、涙を見てすぐに

「本当は悲しかったんですね」
「これがあなたの本音ですね」

とは決めません。

使うのは、**「小さな声をきくレンズ」**です。

涙を「答え」にしない

感情の涙は、悲しいときだけに出るものではありません。

喪失や悲しみだけでなく、
喜び、愛情、再会、達成、感動、安堵など、
さまざまな場面で涙は起こります。

また、感情についての研究では、
同じ出来事が起きても、誰もが同じ反応をするわけではなく、

その出来事がその人の願いや目標、人との関係などにとって
どんな意味を持っているのか

によって、感情の動き方が変わると考えられています。

だから、

「涙が出た=本当は悲しい」
「涙が出た=そこに本音がある」

と、一つの意味に決めることはできません。

泣かなかったからといって、
大切ではないということでもありません。

けれど私は、涙が出たところを
そのまま通り過ぎないようにしています。

涙を答えにしない。
でも、涙が出たところを小さくしない。

ここに、何があるんだろう。

そうやって見ていきます。

「何を感じている?」を、一つに決めなくていい

今回の私の中には、

「悔しい」
「腹が立つ」
「悲しい」
「理不尽だ」
「もっと言い返せばよかった」
「何もできなかった自分が不甲斐ない」

そんな声がいくつもありました。

どれか一つを
「本当の気持ち」に選ぶ必要はありません。

むしろ、一つずつ、

「うん。これもある」
「これも、今の私なんだな」

と見ていきます。

そら音処でいう「小さな声をきく」とは、
きれいな気持ちや、前向きな気持ちを探すことではありません。

怒りも、悔しさも、悲しさも。

普段なら
「こんなこと思っちゃいけない」
「いつまでも怒っていても仕方ない」

と小さくしてしまいそうなものも、
まずはそこにあるものとして見ていきます。

最初には見えていなかったものが、あとから見えることがある

今回、いろいろな声を一つずつ見ていったあと、
私の中に残ったものがありました。

それは、

「みんなのためにと、精一杯やっている人たちを、私はとても尊敬している。誇りに思っている」

という気持ちでした。

私は最初から、この気持ちを探そうとしていたわけではありません。

「怒りの奥には、必ず愛があります」

というような答えを決めていたわけでもありません。

ただ、そのとき自分の中にあるものを
一つずつ見ていった。

すると、最初には見えていなかったものも
そこにあることに気づきました。

見えるものが増えると、現実への関わり方も変わる

ここが、そら音処でチューニングをするときに
大切にしているところです。

心の中を見て、
気持ちを落ち着かせることだけが目的ではありません。

今回の私は、それまで、

「この人にどう言い返そう」
「どうしたら分かってもらえるだろう」

ということに、かなり心を占領されていました。

でも、自分が本当に大切にしていたものに気づいたあと、

「私が尊敬している人たちのやろうとしていることを進めるために、私は何ができるだろう」

と考えられるようになりました。

怒りが消えたわけではありません。

相手の言動を
「仕方なかった」と思えるようになったわけでもありません。

ただ、自分の中にあるものが
怒りだけではなくなった。

そのぶん、現実を見る視界が少し広がりました。

そら音処で使う「レンズ」は、
正しい答えを見つけるためのものではありません。

今は見えていないものも含めて、
自分の中で何が起きているのかを見ていくためのものです。

そして、見えるものが増えると、

「では、私はここからどうする?」

を、少し違う場所から考えられることがあります。

涙を答えにしない。
でも、涙が出たところを小さくしない。

これも、そら音処で大切にしている
「小さな声をきく」ための見方の一つです。