心配する気持ちも、尊重したい気持ちも― 矛盾した気持ちを、どちらも持ってみる ―

子どもが大きくなって、行動範囲が広がっていくと、
親の中にはいろいろな気持ちが出てきます。

心配だから、つい口を出したくなる。

こうした方がいいんじゃない?
それ、大丈夫?
もう少し考えた方がいいんじゃない?

そんな言葉が出そうになる。

でも一方では、

もう大きくなったんだから、本人に任せたい。
自分で考えて、自分で選んでほしい。
子どもの人生を尊重したい。

そんな気持ちもあります。

以前の私は、この二つが出てくると、

「ここは言って聞かせなきゃ。」
か
「もっと信じて任せなきゃ」
か
どちらか一方を正しいものにしようとしていました。

でも、そら音処で今使っている見方の一つに、
「矛盾した気持ちを、どちらも持ってみる」
というものがあります。

心配している私もいる。
子どもを尊重したい私もいる。

どちらかを消そうとせず、
「うん。両方あるね」
と、そのまま見てみる。

私にとって、子離れのときに役に立ったレンズの一つが、これでした。

「心配しない親」になろうとしなくていい

心配する気持ちがあるからといって、
子どもを信じていないわけではありません。

子どもを尊重したいと思っているからといって、
心配が消えるわけでもありません。

その二つを同時に持ちながら過ごしていると、
少しずつ、
子どもの姿の見え方が変わっていきました。

私が心配していることだけを見るのではなく、
この子は、この子なりに考えているんだな
というところが、
以前より見えるようになったのです。

自分で考えて、行くか行かないかを決めている。
迷いながらも、自分なりの理由を持って選んでいる。
失敗することもあるけれど、
そこからまた考えている。

そんな姿が見えてくると、
私の言葉も少しずつ変わりました。

以前なら、
「こうしたら?」
と提案していたところで、

「どうして、あのとき行かなかったの?」
「そのとき、どんなふうに考えたの?」
と聞くようになりました。

会話の中身が、変わっていった

すると、子どもの方からも、
「こう思ったから、こうした」
「こうしたいと思ってるんだけど、お母さんはどう思う?」

と、自分の考えを話してくれることが
増えていきました。

私はそこで初めて、
「ああ、こんなふうに考えていたんだ」
と知ることもたくさんありました。

その中身は、
私が思っていたよりずっとしっかりしていて、
いつの間にか、
自分で考えて、自分で選んで、自分で進んでいる。

そんな姿を見て、
たくましくなったなあ
と、心が満たされることが増えました。

子離れというと、
「手を離さなければ」
「口を出さないようにしなければ」
と、親の側が何かを我慢することのように
聞こえることがあります。

でも、私の場合は少し違いました。
心配する自分を消したわけではありません。
「何も言わない親」になったわけでもありません。

心配する自分も、子どもを尊重したい自分も、
どちらも持ちながら、
子どもの姿をもう一度よく見るようになった。

その中で、関わり方が少しずつ変わっていきました。

矛盾しているから、間違っているわけではない

人の気持ちは、いつも一つではありません。

心配。
信じたい。

離したくない。
でも、自由に進んでほしい。

口を出したい。
でも、自分で決めてほしい。

一見すると矛盾しているように見えるけれど、
どちらかが嘘で、どちらかが本当、とは限りません。

そら音処では、こういうとき、

どちらかを消して正解を出すのではなく、
まず両方を持ってみる。

そんな見方をします。

両方を持ったまま見ていると、
それまで心配の方に隠れていたものや、
逆に「任せなきゃ」の方に隠れていたものが、
少しずつ見えてくることがあります。

そして、見えるものが増えると、
「じゃあ、私はどう関わりたい?」
を、以前とは少し違う場所から
考えられるようになります。

私にとって子離れは、
子どもから離れることではなく、
親子の関係を、少しずつつくり直していく時間でした。

そのときに役に立ったレンズの一つが、

矛盾した気持ちを、どちらも持ってみること。

心配している私も、
信じたい私も。

どちらも置いていかずに見てみる。

そこから、私たち親子の会話は、
少しずつ変わっていきました。

🍃
今回お話した
「矛盾した気持ちを、どちらも持ってみる」という見方。

私の場合、
子離れのときにもう一つ大きかったのが、
**「親から受け取ったもの」**
を見ることでした。

LINEでは、
私自身の子離れの経験を少し交えながら、
「親から受け取ったもの」というレンズ
についてお話ししています。

よかったら、聞いてみてくださいね。